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最高裁判所第二小法廷 昭和54年(あ)690号 判決

主文

本件各上告を棄却する。

理由

弁護人藤田一良、同熊野勝之、同仲田隆明の上告趣意第一の一について

所論は、憲法三一条違反をいうが、刑法一七五条の構成要件は所論のように不明確であるということはできない(最高裁昭和二八年(あ)第一七一三号同三二年三月一三日大法廷判決・刑集一一巻三号九九七頁参照)から、所論は前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。

同第一の二について

所論は、憲法二一条違反をいうが、刑法一七五条が憲法二一条に違反するものでないことは、当裁判所大法廷判例(前掲昭和三二年三月一三日判決、同三九年(あ)第三〇五号同四四年一〇月一五日判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁)の趣旨に徴し明らかであるから、所論は理由がない。

同第一の三について

所論は、憲法二四条違反をいうが、所論の点に関する原判決の説示は、女性を不当に差別する思想に基づくものでないことがその判文上明白であるから、所論は前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。

同第二について

所論は、単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

弁護人熊野勝之の上告趣意第一について

所論は、憲法七六条三項違反をいうが、実質は単なる法令違反の主張であり、適法な上告理由にあたらない。

同第二について

所論のうち、憲法二四条二項違反をいう点は、原判決が女性を不当に差別する思想に基づくものでないことは前説示のとおりであるから、所論は前提を欠き、その余は単なる法令違反の主張であつて、いずれも適法な上告理由にあたらない。

同第三について

所論は、判例違反をいうが、所論引用の判例は、所論の「善良な性的道義観念に反すること」の意義について所論の趣旨まで判示するものではないから、前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。

同第四について

所論は、判例違反をいうが、所論の点についてはすでに最高裁判所の判例(前掲昭和三二年三月一三日大法廷判決)が存するのであるから、大審院判例を引用する所論は、適法な上告理由にあたらない。

弁護人仲田隆明の上告趣意について

所論のうち、憲法二一条、三一条違反をいう点は、刑法一七五条が憲法二一条に違反するものでなく、また、その構成要件が不明確であるともいえないことは、既に説示したとおりであり、その余は単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

よつて、刑訴法四〇八条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(栗本一夫 木下忠良 塚本重頼 鹽野宜慶 宮崎梧一)

弁護人藤田一良、同熊野勝之、同仲田隆明の上告趣意

第一 原判決は憲法の違反があり、その違反が判決に影響を及ぼすことが明らかであり、原判決は破棄されなければならない。

一、原判決は憲法三一条に違反する。

1 原判決は刑法一七五条にいうわいせつ文書の意義は、昭和三二年三月一三日大法廷判決のいう

「その内容が(1) いたずらに性欲を興奮または刺激せしめ、(2) かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、(3) 善良な性的道義観念に反する」

文書のことであると、これまでの判例の用語をそのまま踏襲し、そしてある文書が右の要件を充たすものであるかどうかの判断は、

「一般社会において行われている良識、すなわち社会通念に従つてなされるべきであるが、その根幹をなすものはいわゆる性行為非公然性の原則であり、性器または性交、性戯等の性的行為の状況を、これを目のあたりに見るに比せられるほど露骨かつ具体的に描写しているかどうかが重要な基準になるというべきである」

と判示している。

2 しかし、原判決の適用法令である刑法一七五条が処罰の対象としている「わいせつ文書」の「わいせつ」の構成要件としての意味内容が曖昧かつ不明であり、最高裁判所がいわゆる「チヤタレー事件」の判決であらためてこれを「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ」かつ、「普通人の正常な性的羞恥心を害し」「善良な性的道義観念に反するもの」と定義することを必要としたこと自体、同条の規定が法文の文言自体で一義的に明確であることが要求される罪刑法定主義に違反していることの証拠であり、更に右のいわゆる「三要件」が問いに答えるに更により不明確かつ理解困難な問いを以てする類いにすぎず、同条はどうみても実質的に白地規定というほかなく、憲法三一条に違反する違憲の法令なのである。しかも、当該文書に対する「性器または性交、性戯等の性的行為の状況を、これを目のあたりに見せられるほど露骨かつ具体的に描写しているかどうかが」についての「印象」の有無が「わいせつ」か否かを分けるというのであるから、いわゆる「性行為非公然性の原則」なるものを持ち出して説明しても同じく構成要件としての「曖昧性」や「白地規定性」が解消されるわけではない。

原判決はまた、わいせつ文書か否かの判断は、右の基準によつて「社会通念に従つて客観的になされるのであるから、同条が罪刑法定主義を定めた憲法三一条に違反することはできない」

とも判示する。しかし問題となるのは、何を「社会通念」であるとすることができるか。そして、それが明確でないのに「客観的」に判断することがどうして可能かというところにある。

3 たとえば弁護人らが原審弁論要旨(二)一一丁以下において引用した「誘惑」と題する小説をはじめとして、今日週刊誌や、各種の雑誌、出版物などに本件小説と同じような、あるいはそれ以上と読者によつて感じられる性描写を含む小説類が掲載されており、「フオークリポート」のような小数のそれではなく多数の読者によつて読まれている現状にあることは公知の事実であろう。これらの「小説類」が取締の対象にすらされず、他方本件小説のごときいわば一青年の習作といつた程度のものがどうして「有罪」とされる、その区別の根拠は全く明白でないのである。

一審裁判所でさえ、

「刑法一七五条にいうわいせつ文書の意味内容が法の規定それ自体からは必ずしも明確でないところからこれを知る手掛りとしては従来の判例を参考にすべきであり、当裁判所もわいせつ文書の一般的定義としては最高裁判所の右判例の見解を是認すべきものと考える。しかし、この見解は同条にいう『わいせつ』の概念を一応明らかにしたものと言い得るけれども、いまだ一般的抽象的基準であることを免れないから、これを具体的文書に適用するに当つては改めてその解釈が必要とされるのである。」

と判示しているが、このことは法律の専門家であり国家の刑罰権の発動の是非を判断する責任を負う裁判所自体が、禁止規範として国民にとつて一義的明確さで理解し得ることが最低不可欠の要求とされる刑罰規定を、それ自体としては不明確であることを認めたうえで、裁判所さえもがその明確な意味内容を知る手掛りとして最高裁の判例を参考にすることが必要であるが、しかし、「右判例の見解といえども、いまだわいせつ概念を一応明らかにしたものにすぎず、いまだ一般的抽象的基準の域を出ない」ので、「具体的文書に適用するに当つては改めてその解釈が必要である」と述べていることにほかならない。

裁判所でさえもが、「文書」の判断の前提として、右のように何段階もの観念操作を必要とするのに、どうして法律の専門家でもない一般国民がこれを適確に把握して、「禁止の規範」を明確にすることが可能であろうか。しかも、性に関する文書は、無限の多様性で具体的に存在し、またこれらに対する受け取り方も必然的に各人各様であるのに。しかも、このような「具体的文書に適用するに当つては改めてその解釈が必要である」と述べる解釈作業も、被告人らをはじめ、国民の側からみれば、表現の自由の可否をめぐる事後立法にすぎないのであつて、刑法一七五条のごとき曖昧な規定を前提とするいかなる解釈作業もいわゆる法解釈の範ちゆうをはみ出す罪刑法定主義違反のそしりを免れることはできないのである。

4 原判決の固執するいわゆる三要件は、原判決によれば、結局その具体的判断は、「性行為非公然の原則」、すなわち文書が「性行為を公然と行つたと同一の効果を生じる程度に文中の人物の性的行為が具体的に描写表現されているか否かによつて決定されるべきものと解すべきである」ものであるとされるのである。ある文書が右のように「性行為を公然と行つたと同一の効果を生じる」ものかどうかは、誰がみてもよく理解されるように極めて不安定かつ余りにも漠然とし過ぎた判断基準であり、判断者の主観によつて大いに左右されざるを得ないものであり、とうてい構成要件の厳密性の要請に応えることができないものと言わなければならない。

弁護人らはさらに右に加えて、本件小説のごとき文書による性表現はそれがどのようなものであれ、全く性行為の「非公然性の原則」? を冒すことはあり得ないと主張するものである。

文書に表現された世界は、あくまで観念の世界に展開されるドラマに過ぎず、現実とに別次元のものであることは自明であり、「性行為を行つたと同一の効果を生じる」ことなどそもそもあり得ないのであり、原判決の判示は、そもそもはじめから比較対象しようのない違つた次元のことがらをあたかも同一平面に置いて較べることができるかのように述べている誤りがあることは、動かしようのないことと言わざるを得ない。

読者の側から考えてみても、文章・文字・記号によつて触発、喚起されるイメージも感情も、それぞれの知識・経験によつて千差万別であり、この点からも「性行為を行つたと同一の効果」の有無を判定することなどとうていできない話である。そして、古来読書こそは人間の生活の中でも最も個人的・内的な行為であり、「公然性」とは相容れることがない行為であることもこれまた多言を要しないところであり、取締りのために無理に考え出された屁理屈というほかないことは明らかである。

5 以上述べたように原判決の適用法令である刑法一七五条は罪刑法定主義を定めた憲法三一条に違反するものであり、原判決はこの点においてだけでも破棄されるべきものである。

二、刑法一七五条は憲法二一条に違反する。

1 原判決は刑法一七五条が憲法二一条に違反しないことの理由としてさきのチヤタレー事件の判決等を援用する。

表現の自由を定めた憲法二一条が無制約的に表現の自由を認めたものではないにしても、刑法一七五条の適用にはつねに憲法二一条との関係を慎重に顧慮することを要する。

言うまでもなく表現の自由は、民主主義の根幹をなす最も重要な基本的人権である。旧憲法二九条の規定では「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニオイテ言論・著作・印行・集会・結社ノ自由ヲ有ス」とされていたのに、現行憲法二一条では、「法律ノ範囲内」の範囲内との限定を設けていないことで明らかなように、最大限の保障をしているのであり、制約を受けることがやむを得ない場合であつても必要最少限のものでなければならないことは異論を見ないところである。(従つて、制約を受けるのは他人の権利を直接侵害する場合、すなわち、脅迫・侮辱や犯罪の教唆等が例示として挙げられている。)「三要件」のように人間の羞恥心とか性的道義観念がそこなわれたかどうかを可罰性の尺度にするのでは余りに漠然としていて、とうてい憲法二一条の保障を全うすることができないことはまことに原判決の摘示のとおりであり、ウオーレンとブランダイスが主張するように、「言論は、法律が防止せんとした害悪を生ずる明白にして現在の危険が認められる場合にかぎり制限すべきである」と言わねばならない。

しかしながら、いわゆる「わいせつ」について、読者にこのような危険を及ぼすことの現実の証明はこれまで何一つないのである。「わいせつとポルノグラフイーに関するアメリカ調査委員会報告書」(一九七〇年)も、「もし一九七〇年に“ポルノグラフイー”に対する一つの事件が成立するとしたら、それは個人もしくは社会を害したという証明以外の理由で成立されなければならないであろう。この問題(ポルノグラフイーの影響)を明らかにするための実験的調査は、性的物件の閲覧が青年及び成人の間に過失または犯罪的性行為の発生に重大なる役割を果たすという、信頼するに足る如何なる証拠も今日に至るまで見出していない。影響力についての考慮なく制定された法的判断や社会政策はおのずと制限されなければならないように思える。これらの調査で判明した全ての事実から引き出し得る結論は、調査した如何なる集団にも危険な影響は証明されなかつたということである。」と、ポルノグラフイーの影響に関する報告の冒頭にはつきりと述べているように、ポルノグラフイーと言われる文書、図画に関する表現の自由の制約を是認すべきなんらの根拠も存在しないのである。(同報告書は、反対に、「ポルノグラフイーは有益で好ましい結果をもたらすことがあり、エロチツクな文書等は下剤的機能を果たす、つまりそれはセツクスの緊張からの解放、安全弁、あるいは中和剤として役立つことがある」としてその社会的有益性を積極的に評価しているのである。)

2 「三要素」は刑法的保護の対象たり得ないことについて。

次に、いわゆる「三要素」がそれぞれどの一つをとつても、また全体としてこれをみても、なんら刑法的保護の対象となり得ないたわいのない「要素」でしかないかを順次述べることにする。(以下、有斐閣版刑法講座第五巻・前田信二郎「猥褻の意義」からの引用による。)

(1)  「性欲の戟激と興奮」という要素

これは食欲のそれと同様に心理的生理的な自然・本能・反射現象であつて、生のシンボルである。たとえば「婦女を見て性欲を感じた」ならば、その婦女は猥褻だという規範的評価が与えられるであろうか。この内心的状況は、いまだ社会的になんらの危険も感じられないし、「犯行のバネ」とは無関係な状態であり、「公共危険罪」としての法益論的考察からすれば、予備でも未遂でもない。まして読者や観覧者は、個人としてなんらの危害を受けてはいない。この段階は、日常茶飯事であり、法と社会の平和は少しも乱されておらず、適法性の領域にあると解することが正しい。

(2)  「羞恥心を害する」という要素

これは(1) の心理的効果とみられるが、羞恥心という心的現象は内攻性のものであり、また否定心理ではない。「彼女は頬を染めて肯定した」という場合も羞恥心であるが、これを害するということは、結局「羞恥厭悪ノ感念」という表現のむしかえしを意味するだけで、羞恥心ではなく厭悪の情、不快の念を起こさしめるということになると考えられる。敗戦後の日本の判決はこれらの言葉を用いていない。その理由は、ストリツプ・シヨーの観衆は、わざわざ厭悪の情を惹起するために、悦んで入場料を払うことを説明できないからである。ともあれ、このように「公共危険罪」としてではなく、「個人に対する罪」として定義づけをしなければならないこと自体に無理が認められるが、それよりも、羞恥心を害することが仮に明白であるなれば、その作品それ自体を処罰しうることになり、一七五条は「頒布販売罪」ではなく、「文書罪・所持罪」と解されることになる。そうすることにより、かつての新聞紙法や出版法など治安立法の代役としての意義をもつことになるが、その危険性は皆無であるとはいいきれない。英米においては「腐敗・堕落」という用語が使用されているが、この場合、読者に対する「説得」の段階ではいまだ違法性を帯びず、これが「行動の引金」として、そのような心理を表現する犯行の実現が十分に推測される場合に、「傾向やおそれ」があるとして罰せられるにいたるという「明白にして現在の危険」の法理が、具体的文書に対する関係で適用されるのである。羞恥心を害することがどれほど危険か、そのために刑罰をたずさえて言論・表現の自由を抑制する必要がどこにあるか、おびただしい矛盾と疑問が深められるだけであろう。

(3)  「善良な性的道義観念に反する」という要素

これは「公然」という構成要件に基づいて解釈されるものであり、チヤタレー裁判にいわゆる「性行為非公然の原則」と同工異曲の権威主義的な発想法によるものである。「善良な」という言葉は道義観念にかかる修飾語で法的意味はない。性的道義観念ということは、人間の創造と理解のために性を尊重すること、すなわち「性を弄んだり、侮辱したりしない」(D・H・ローレンス)ことであり、「性すなわち猥褻」という偏見にくみしない精神である。性行為それ自体は「秘めごと」であつても、恋愛、結婚、性科学、性文芸の啓蒙的表現を禁ずる趣旨ではないから、人間としてのセツクスの正しい理解のための作品、性行為非公然の原則にも、性的道義観念にも牴触することはあり得ない。それ以外に裁判官の個人的な道義観念や禁欲主義思想などをもつて、社会通念とすりかえるような附会的解釈を行うことは正しい態度とはいえない。何となれば、その社会とその時代に規範として確立した性道義観念または秩序という基準は浮動的かつ相対的な性質のものであつて、容易につかみえないからであり、裁判官がもしかような規準的な規範によつて判断するというならば、それを証明しなければならない。しかもそれは公序良俗とか公共福祉という観念的な規範原理ではなく、より狭く明瞭な社会的な規準であり、事実認定の対象であつて、法解釈だけで済まされるべきものではないことを注意しておこう。

以上によつて明らかなとおり、個人的法益に属する性欲の刺激と興奮、羞恥心の損害は、それ自体個人差が強く、いまだ犯罪的危険を問う段階にあるものではなく、それに基づく反社会的危険行為の動機設定にまでいたらない内攻的な心理現象であるから、性的道義観念という一般的平均値的な規範的価値体系の違反または侵害という公共の危機は、容易に認められがたい。これらの三要素はそれぞれの事実認定が不能であり、それらを併合して三者を一体にしても、不能は可能に変化することはありえない。

以上、「三要素」がどれーつまた全体として刑法による保護の対象になり得るものでないことを述べてきた次第であるが、原判決の思想は、要するに性はけがらわしい、汚ないもので語るべきものではないという、なんとも批判にすら価いしない偽善的独断と偏見に裏打ちされたものと考える以外に理解のしようのないものである。原判決のごとき思想によれば、われわれ人間はけがらわしく生まれ、「動物的存在を意識」しつつ恥ずべき性行為によつてその類的存在を維持していかなければならないことになるが、性を汚れたものと考える原判決が、人間の生命の尊厳を事実理解しておられるのかどうか、極めて疑わしく考えざるを得ないのである。

3 刑法一七五条は、このようになんら表現の自由を制約すべき実質的理由のない文書・図画等の販売、同目的所持を刑罰に処することを定めた規定であるから、憲法二一条に違反するものであることは明白で、疑問の余地のないところと言わねばならず、原判決は、この点について当然違憲判決を下すべきであるにもかかわらず、これをなさなかつたのであり、この点においても原判決は破棄されるべきものである。

三、刑法一七五条は憲法二四条に違反する。

チヤタレー事件の最高裁判決や原判決においてみられるがごとき「性行為非公然の原則」をその根拠とする刑法一七五条合憲の理論は、究極において女性は「厭らしい劣つた存在である」という主張であり、憲法二四条(両性の本質的平等)の精神にも反する違憲の法規である。(その理由の詳細については原審弁論要旨(二)第二、の二、三参照)

第二 原判決の「判決に影響を及ぼすべき法令の違反」及び「判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認」

1 本件証拠の中には被告人が本件文書が「わいせつ文書」であることを認識しながら、これを販売・所持していたことを認定させるものはないにもかかわらず、原判決はあたかもこれを自明の前提であるかのごとく、この点についてなんら判示することなく、有罪の判決をした。これは証拠によらない事実認定であり、原判決は刑事訴訟法三一七条(証拠裁判主義)に違反し、同法四一一条一項による破棄を免れない。

2 本罪の行為は目的物の「わいせつ性」を認識していなければ故意があるとはいえないことは明らかである。

しかし、前記チヤタレー事件の判例では、

「一七五条の犯意の成立については、問題となる記載の存在の認識とこれを頒布販売することの認識があれば足り、かかる記載のある文書が同条所定のわいせつ性を具備するかどうかの認識まで必要としているものではない」

としている。

しかし、故意の内容として刑法一七五条にいわゆる「わいせつ」にあたるとの認識が必要でないとしても、文書の意味の認識として「わいせつ性」の認識は必要である。(団藤総論二一五頁参照)また少くとも、本件文書と同等またはそれ以上の具体性の程度を有する文書がなんら取締りの対象とならず、広く社会的に許容されている現状からみれば、このような認識のない被告人らに本件文書の所持販売を自ら止めようとする反対動機の形成を期待することは不可能であるので、責任阻却事由があるものとして無罪であり、原判決はこの点において、刑事訴訟法四一一条三項による破棄事由があるものとして破棄されるべきものである。

なお、被告人中川五郎の意見書を本上告趣意書の末尾に添付する。右は本趣意書と一体となり、被告人らの上告趣意を明らかにするものである。

大阪高等裁判所判決に対する私の意見

中川五郎〈省略〉

弁護人熊野勝之の上告趣意

第一 原判決は憲法七六条三項に反する

被告人中川五郎は、性が一方で汚わらしいものとしてタブー視される一方、人格の尊厳を傷つける様々な方法で性が商品化されていることに対する批判を込めて、若者の性の問題を、これら一見相反しながら根底において共通する性に関する誤つた認識から解放しようと真剣に試みた。一審判決は、現代の若者及若者を取りまく性に関する諸問題を真剣に考察し、評価し、何が真の「猥褻」であるかを明かにした。二〇丁に及ぶ一審判決の判示を読めば、そこに裁判官の「良心」というものを何びとといえども感じとらざるを得ない。

しかるに原審は今日これほど重要な若者の性の問題についておよそ真剣に考察しようとせず、何が真の「猥褻」かについて、何一つ自らの頭で苦心して考えるという努力を払われなかつた。悪評高いチヤタレー判決も三〇年前の当時としては極めて保守的な立場からではあるが、一つの基準を打出そうとした努力の跡が窺えるが、事情の全く変つた今日ミイラそのものによりかかつて自らの頭で考えようとしないのは知的怠慢という他ない。原判決の判文から裁判官の「良心」と「知的独立」を感じとることは不可能である。原判決は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行」わねばならないとする憲法(七六条三項)に違反するから破棄されねばならない。

第二 原判決は憲法二四条二項に反する

原判決は、「性器」等を「目のあたりに見るに比せられるほど露骨かつ具体的に描写しているかどうかが重要な基準」であるという。原判決の判示はあまりに粗略で、判文上からは必ずしも明確でないが、性を不浄視する一部の保守的立場に立つていることは明かである。従つて、そこでいう「性器」は女性の性器であり、女性の性器を「何人と雖卑猥淫靡の醜状に付嘔吐を催わさざるを得ず」(大審院大正七年六月一〇日判決に引用されている検察官上告理由中の文言(新聞一四四三号二二頁原審弁論要旨末尾に添付)とする見解である。

本件は、いうまでもなく性器それ自体を露出したものでなく、性器に関する活字による記述にすぎない。原判決の見解は畢竟するに女性の性器を不浄視し、その所持者としての女性を男性より劣位にあるものとして蔑視し差別してきた思想を維持し、助長するものである。これは「両性の本質的平等」を強調する憲法(二四条二項)の精神に反するものである。詳細は一審弁論要旨、原審弁論要旨(二)で述べたのでこれを引用する。

なお原判決は、弁護人の右の論点に対する判断を示さず判断脱漏の違法がある。

第三 原判決は最高裁昭和三二年三月一三日大法廷判決(刑集一一巻九九七頁)に反する。

右判決は、猥褻の三要件として

(1)  いたずらに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ

(2)  普通人の正常な性的羞恥心を害し

(3)  善良な性的道義観念に反する

を挙げている。当該文書が刑法の猥褻文書とされるには、右三要件のすべてを充足しなければならず、その一を欠いても猥褻文書と評し得ない。

ところで、右三要件相互の関係は判文上必ずしも明確でない。しかしながら三要件といわれる以上三者がそれぞれ異る内容を示しているものと解さねばならない。

そうだとすれば、(2) は(1) の程度を表わしているものとみることが出来るが、少くも(2) と(3) 、「羞恥心」と「道義観念」は異質の内容を表わしているものとみなければならない。「道義」とは「人のふみ行うべき正しい道」(岩波国語辞典)であるから、表現上の具体性など感性に属することがらでなく、表現された内容の体系的な価値観に属することがらである。前掲のチヤタレー判決でいえば、配偶者のある者「婚姻外性交の自由」を肯定するか否か、といつた立場の問題であり、右判決はそれを否定する立場(民法七七〇条一項一号)から、「チヤタレー夫人の恋人」に否定的価値判断を与えたものである。

しかしながら、本件文書に表現された内容は配偶者のない者同志の婚姻外性交であつて、その是非はともかく、国法上否定的価値判断を加えられるべきものでない。即ち「善良な道義観念」に反するものではない。法は最小限の道義にかかわるべきものであつて、以上に道義に干渉するのは法の内在的制約に反する。

従つて、本件文書が仮に、右(1) 、(2) の要件を満したとしても、(3) の要件は満していない。にも拘らず満すものとした原判決は、右判例に反する。

第四 原判決は大審院大正七年(れ)第一四六五号大正七年六月一〇日刑事二部判決に反する。

右判決は「猥褻」と評価されるには「羞恥嫌悪の感念を生ぜしむるものたることを要す」と判示し、検察官が「嘔吐を催す」とした「婦人の陰阜の膚毛を模擬したる物」の販売を無罪とした。

本件文書は「仮に羞恥」の感念を生ずることがあつても「嫌悪」の感念を生ずることはない。にも拘らず「猥褻文書」とした原判決は右判例に反する。

弁護人仲田隆明の上告趣意

はじめに

原判決に対してある法律雑誌は次のように批評した。

「原判決が、最近の性に関する社会情勢等を踏まえて注目すべき判断をしていただけに、控訴審がいかに対応するか興味がもたれていたわけであるが、このようにして本判決は、特段の新しい判断をすることなく、ほぼ忠実に従来の判例に従つて、原判決を破棄したものである。四畳半襖の下張り事件と共に、今後の論議及び上告審の判断が注目されるところといえよう。」(判例時報九二三号一三七頁)と。

右批評は、明らかに一審判決を評価し、これに対する原判決の精緻な論理の展開を期待していたが、この期待を裏切られたということを云つているものである。

実際、原判決には、無罪の一審判決を覆えすに足る論理の展開をどこにも見出すことができない。

原判決の云渡直後に、弁護人の一人は、裁判所の時計は停つているどころか逆回りしていると云つた。

大正七年の大審院判例を基調する昭和三二年の最高裁のチヤタレー判決をー歩もでることなく、しかも、同判例の云う猥褻の三条件を何ら咀嚼することなく機械的に応用するだけの原判決では、まさに裁判所の時計は逆回りしていると評するほかはないであろう。

現在は昭和五四年なのである。

原判決は到底批判に耐えうる代物ではない。

それ故、右の法律雑誌が記載するように、上告審の判断が注目されるのである。

第一 原判決は憲法二一条違背

一、いまや、法一七五条が憲法二一条に違反するというべき機は熟している。

周知のとおり、現在においてはアメリカにおいてもヨーロッパの各国においてもポルノは解禁されていて日本のようにヌード写真を上陸させるときに消去したりする猥褻な作業はしなくなつている。

また、日本人の海外旅行熱は益々高まり、数多くの人々がアメリカヘ、ヨーロッパヘと出掛けていつては帰国してくる。そして、海外旅行に出掛けるのは、何も成人男子だけではなく、女性も子供もいる。

これらの海外旅行者がアメリカやヨーロツパ各国のポルノシヨツプに立寄つた話はよく聞くことであるし、また例えばアメリカの性行為の実演そのものを見てきたということをみやげ話として聞くところである。

しかしながら、これらの海外旅行者が旅行に行かない人々に比べて、性犯罪を犯すとかその他の犯罪を犯すことが多くなつたということは聞いたことがない。

さらに、日本の税関で日夜ポルノ雑誌、ポルノ小説と斗つている(?)職員達が性犯罪を犯すとか、その他の犯罪を犯すとか、他の人々に比べて特異な性行動をとるというような話を聞いたこともないし、ありえないことでもある。

そもそも、ポルノ雑誌、ポルノ写真等が本当に人間に対して悪影響を及ぼすということであれば、税関職員にそれのチエツクをさせることは、それ自体が極めて非人道的、犯罪的であつて到底許されるべきものではない。

例を薬の毒性テストにとつて検討してみる。

仮に、薬の毒性テストをするに当つて、テストを実施する職員自身が、自分の腕に薬を注入してテストしなければならないとしたらどうなるであろうか。

職員の身体はそれこそいくつあつてももたないことは云うまでもない。

ポルノ雑誌、ポルノ写真に毒性があるとすれば、まさに税関職員は自分の目から毒性を大量に摂取していることになる。

しかし、どうも税関職員がポルノの毒によつて犯罪に走つたことはなさそうである。

これらの事実は、裁判所が従来考えていたような、猥褻文書、図画には人間に影饗を及ぼす弊害があるという事実は明らかに誤りであることを示している。

まさか、裁判所は、ポルノ解禁の国々の文化が日本の文化よりも低いとは云うまいし、ポルノ解禁の国民が日本の国民より犯罪に走りやすいとも考えてはいまい。

二、このように、猥褻文書、図画に何ら弊害がない以上、法一七五条はその存在意義を全く失うことになる。

何らの法益をも侵害しない以上、猥褻文書、図画に刑罰をもつて禁ずる必要は存しないからである。

ことに、法一七五条は、憲法二一条の表現の自由を制約することは明らかであるから、法的には憲法二一条によつて違憲無効な条項といわざるをえない。

ところで、表現の自由は、誤つた政治=人民に敵対する政治をチエツクするための最も基本的かつ重要な権利である。

表現の自由が制約され、出版の自由、報道の自由が制約されるとなると、政治は国民のらち外に置かれることになり、民主々義はたちどころに骨抜きにされてしまうであろう。

「猥褻」だから、政治とか民主々義とは無縁であるという主張も通らない。

戦前の出版法、新聞紙法という表現の自由を著しく制限した法律は、「社会を攪乱するもの」という条項でもつて多くの猥褻文書を取締つたことに思いを致すべきであろう。

このことは、法を運用する者にとつては、気に食わない文書をすべて猥褻だと決めつけることも可能であることを示唆している。

また、表現者が性に関連して政治的主張をすることもありうるのである。

そして、過去の歴史においては、性の抑圧と政治、人民の支配の関係は無縁というものではなく、性の抑圧を通じて人民を支配してきたといえるのである。

性の解放は、表現の自由の制約を通じての抑圧から人間を解放し、自律的人間、自由な個人を生み出すのであり、これは権力の最も嫌うところである。しかし、現憲法の民主々義の基本原則、表現の自由の尊重からすると性の表現についての抑圧も違憲である。

三、ここで法一七五条を検討してみよう。

同条を読んで猥褻の定義、基準、他との限界を理解できる者は誰もいないであろう。

そして、同条を具体化したという最高裁のチヤタレー判決の猥褻の三条件というものも、弁護人には到底理解することができない。

まして、難解な法律用語に親しみのない一般国民は猥褻の定義、基準を到底理解することができない。

弁護人には、このように法が猥褻の概念をわかりづらくしていることは、意図があつてのこととしかどうしても考えざるをえないのである。

それは、わかりづらくすることによる猥褻概念の拡大である。

すなわち、戦前の出版法、新聞紙法が「猥褻」「社会を攪乱するもの」としていたように、猥褻概念を拡大して一七五条そのものによつて表現の自由の制約を増大していかんと意図しているものであり、あるいは猥褻概念の不明確による猥褻文書の対象を拡げることから、戦前の出版法、新聞紙法のような表現の自由を否定する立法化の端緒とせんと意図するものである。

いずれにしろ、刑法は国民の行動規範として一義的に明確なものでなければならないが、法一七五条はこの要請からほど遠く不明確であり、そして同条が表現の自由の制約をするものである以上憲法二一条に違背すること明らかである。

第二 法一七五条は憲法三一条違反

一、第一で述べたように法一七五条は余りにも不明確であり、チヤタレー判決の猥褻の三要素をもつてきてもやはりその不明確は克服されてはいないと断ぜざるをえない。

そもそも刑法は、人権保障機能を有し、罪刑法定主義の原則がそこに認められている。

しかし、一七五条のあいまいさは独断を刑法に持ち込むことになる。

そして、実際にも、一七五条は税関、警察によつて恣意的に運用されている。

巷に出回つているポルノ小説類は多種多様であるが(弁護人はこれらのどのものも人間にとつて弊害はないものと確信していることは前述。従つて、弁護人はどのポルノあるいはこれに類似する小説等を取締るべきではないと主張している。)、その取締りは極めて恣意的である。

一流というか、一般的に出回つていて、多くの通勤者、旅行者が電車、新幹線、航空機の中で読む週刊誌の小説で有名な作家のものにもポルノ度の強いものがあり、それらは本件の小説「ふたりのラブジユース」より遙かに警察、裁判所の云う猥褻度が強い。

しかし、余り取締られたことを聞いたことはないし、我々もよく目を通すところでもある。要は取締りはいい加減なのであり、言葉を換えて云えば警察、裁判所の云う猥褻には基準が何も存していないのである。

これなどは、刑法の条項はいかに一義的明確なものとして規定されていなければならないかの好例であろう。

法一七五条の白地性、不明確性はどのような理屈をもつて弁解しようとも、憲法三一条から逃げることはできない。

また、同条は合憲の弁解をするに値する条項でもない。

第三 チヤタレー判決批判

一、昭和三二年の最高裁チヤタレー判決は、

「その内容が(1) いたずらに性欲を興奮または刺激せしめ、(2) かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、(3) 善良な性的道義観念に反する」文書が法一七五条にいう文書であるとした。そして、同判決はある著作が、右文書に該当するか否かは法解釈の問題であるが、社会通念を基準とし、その基準は時と所とにより相違があるが、「性行為非公然性の原則」は動かないと判示した。

そして、右判決のいう猥褻の三要素なるものは、もともと大審院のもので、そこからー歩もでていない。

現在のあらゆる分野においてその変化は目まぐるしく、昭和四〇年ごろまでは「一〇年一昔」といわれ、一〇年たてば社会的、政治的、経済的に大変化が起つており、司法の分野においても尊属殺人が違憲とされ、イタイイタイ病事件、水俣病事件、四日市ぜんそく事件、スモン病事件という公害事件でいずれも被害者の全面勝訴となるという従前の訴訟では考えられず、訴訟法もついていけないというところでも司法の人権擁護の機能がいかんなく発揮されてきた。

また、世界的に見れば、それまでの性の抑圧に対しては、アメリカ、ヨーロツパ各国でポルノが解禁され、スウエーデン等の東欧各国では性そのものが個人の責任において扱われ、国家が性について介入することは人間を束縛するものとして否定されるようになつてきた。

このような、内外の諸分野における大変化にもかかわらず、猥褻の三要素が相も変らず生命を持ち続けていることは、我々国民の余りにも怠慢の故ではなかろうか。

猥褻文書が、人間に害悪を与えるものではないことはすでに述べたが、そうであれば最高裁の猥褻の三要素は処罰するためにする定義にしかすぎない。

チヤタレー判決に際して、最高裁は、憲法二一条の表現の自由も公共の福祉によつて制限されるのであり、法一七五条においては「性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持することが公共の内容をなすことについて疑問の余地がない」としてこの公共の福祉を具現するものと判示した。

しかし、最高裁の云う性的秩序とか最小限度の性道徳とかが一体何を意味するのかが全く提示されていない。

例えば、世間的に社会的地位の高いと云われる人ほど妾をつくり、芸者遊びをし、婚姻外の性活動をなしているが、このような関係は性的秩序、性的道徳とは如何なる関係に立つのであろうか。

また、婚姻外のあるいは婚前の性的関係が悪であり、性的に不道徳なものであろうか。

決してそうとは云えない。

性をめぐる男女関係は、その態様において数限りなく存するし、結婚を前提とする、あるいは結婚における性だけが唯一健全なものということはできないし、ましてやこのような性に国家機関の一つである裁判所が、実体のない性秩序、性道徳を守るという名目で介入することは到底許されることではない。

性は人間に必然的に伴う営みであるからには、性を抑圧することなく解放して性をめぐる男女の中から自律的人間、自由な人間を作り上げるようにしなければならない。

そして、一個の人間の歴史において、その人間は性をめぐつて成長していくのであり、このように避けていくことのできない性を、不浄なものあるいは陰湿なものとして規定して、その人間に教え込むならば、その人間は性に対する抑圧を通じてあらゆるその者の営みの中に抑圧を当然なものとして帯有していくことになる。

このようにして、性の抑圧下に生きる人間は、支配する側にとつては都合のよい存在であるが、人間としての自由を見出すことはできない。裁判所の云う性秩序、性道徳とは、まさに抑圧された性そのものであり、管理された性である。

このような性秩序、性道徳の維持が基本的人権を制約する概念としての公共の福祉の内容たることはありえない。

従つて、チヤタレー判決にいう公共の福祉は表現の自由という人民の最も基本的かつ重要な権利の制約概念としては到底認められないから、ここにおいても法一七五条は違憲といわなければならない。

さらに、如何なる性をめぐる文書が作成されようとも、これによつて裁判所の云う性秩序、性道徳を乱すことにはならない。

それは、裁判所のいう猥褻文書であつても然りである。

ここでも例を引くが、仮に裁判所の云うように、猥褻文書が性秩序、性道徳(いずれも裁判所の云うところのもの。以下同じ)を乱すということだから猥褻文書は憲法二一条の表現の自由から例外的に制約されるとしたならば、すべての文書が例外的に制約されて表現の自由は完全に奪われてしまうであろう。

すなわち、現在の社会においてはあらゆる種類、内容の文書が氾濫しているが、その中には殺人を描くもの、戦争を礼賛するもの、暴動をすすめるもの、浮気をすすめるもの、離婚を礼賛するものと一部秩序派にとつては驚愕するようなものが沢山存する。

人を殺すことが悪いことは誰でも知つていることであり、刑法上の犯罪でもあるが、そのような描写をした文書だからといつて表現の自由の制約される場合に該当するとして禁止するのであろうか。

また、浮気、離婚は、裁判所の云う性秩序、性道徳からは決して望ましいものではないはずであるが、それが裁判所の現在いう程度の猥褻に至らない内容だとしても発禁にするであろうか。

要するに、文書は、読み手の相当の努力がなければ内容を理解できないものであるし、内容の理解においても、それをどのように活用するかについてもその能力に負うところが大きい。

従つて、文書を読むイコール性秩序、性道徳の破壊、殺人、浮気に至ることはありえない。

本当に識者が性秩序、性道徳の破壊、殺人の横行を嘆くとするならば、その原因はその時の政治、社会、経済状況にあることは論をまたない。

その原因を罪のない文書に転嫁しようとすることは、政治、その他の国家機関の責任逃れなのである。

二、次に、チヤタレー判決は、猥褻の三要素に該当する文書であるか否かの基準は、社会通念であるが、この社会通念は時と所によつて相違があるが、しかしその場合でも性行為の非公然性の原則は動かないとする。

猥褻の解釈基準として、社会通念をもつてきながら、それについて時と所との変化は認めて「性行為の非公然性の原則」とやらは微動だにしないことは不思議なことである。

社会通念が変化するならば、その中にある性行為の非公然性の原則も変化しなければ論理的におかしいはずである。

それはさておくとして、裁判所の云う「性行為の非公然性の原則」という「原則」も理解し難いものである。

性行為そのものが、二人あるいは特定の者の間での「秘めごと」という意味で右の「原則」が使用されているならば、理解できないことはない。

本件の「ふたりのラブジユース」でもまさに二人だけの若い男女の性が描写されているのである。

普通の人間であれば、自分らの性行為を他人に見せることはあるまい。それは自らの性行為を他人に妨害されたくないことが理由だつたりその他の理由によろう。

しかしながら、性行為を文書で描写することと性行為そのものはあくまでも異なるから、いくら文書中でそれを刻明に描写しようとも性行為を公然化したことにはならない。

現在の税関、裁判所では、文書によつて性行為の描写自体を禁じてはいない。ただ、それが露骨なもの、直截的なものである等と取締まる。

しかし、露骨、直截な描写であろうと、比喩、レトリツク等を用いた描写であろうと性行為の描写であることは同一であるから、裁判所の云う「性行為の非公然性の原則」からいけば性行為の描写を公然としたことで処罰の対象にすべきではなかろうか。

いずれにしても、「秘めごと」たる「性行為」そのものの公然化と、性行為の描写を公然とすることは次元の違う問題であるから、文書が「性行為の非公然性の原則」を犯すことはありえない。

原判決は、理由中で「性行為の公然性の原則」を「性行為を行つたと同一の効果を生じる」と解しているが、文書の世界ではそのようなことはありえないのであつて、原判決は文学、小説を全く理解していないものである。

三、このように、チヤタレー判決のいう猥褻文書に伴う公共の福祉の内容、解釈基準からして猥褻の三要素なるものは到底構成要件を補充するものとして意義のあるものではない。

それだから、三要素は理解に苦しむ表現となつているといわざるをえない。

従つて、本件小説にチヤタレー判決の三要素をもつて罰条を適用することは違法である。

現在の社会通念は、アメリカ、ヨーロツパ各国のポルノ解禁のように、猥褻文書、図画にそれなりの社会的存在価値を認め、合法の枠内に取り入れてしまつているのである。

人間は、猥褻文書に接して悪影響を受けるという弱い存在ではなく、それを吸収しあるいは取捨選択するダイナミツクな存在なのである。

終りに

冒頭で原判決は批評に耐えうる代物ではないと述べた。

社会の変化はめまぐるしく、価値感が多様ないま、猥褻というあいまいな概念を刑法の世界に残しておくことは、一人司法だけがこれらの変化にとり残されることを意味すると考える。現在の社会、現代の人間にマツチした判断をされ、国民の最も基本的かつ重要な表現の自由の拡大に貢献して頂きたいのである。

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